「大鏡」によると、天暦年間(947−956)御所清涼殿の梅が枯れてしまいます。村上天皇は新たな梅を探すことを命じられました。家臣は京中を探しまわりましたが、そう簡単には見つかりません。
西の京に、色濃く咲いている美しい梅があるらしいとの噂を聞き付け、ついに帝の御前に差し出せるほどの見事な梅を見つけることができました。しかしこの梅を大切に育てた持ち主は悲しみ、この歌を書いた短冊を枝につけて献上しました。
「恐れ多くも天皇のご命令ですから、私は謹んで献上いたします。しかし、この梅の枝に宿る鴬が再び今年も飛んできて『私のお家はどこ?』とたずねてきたら、私は何と答えればよいのでしょう」
風流な文の短冊とその気品あふれる見事な梅にいたく感動した天皇は、徒者ならぬ風格を感じ、梅の木を元の庭に戻したと伝えられています。梅の持ち主は、古今和歌集を編集したことで有名な歌人・随筆家、紀貫之の娘・紀内侍で、父の形見として梅を大切に育てていました。この梅は鶯宿梅と呼ばれるようになりました。
鶯宿梅(おうしゅくばい): 日本古来からの遅咲きのウメの在来種です。